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第18話 『 それぞれのペース 』

人には人の、自分には自分のペースというものがある。友人がたまたま20才で有名になったとしても、僕は同じ20歳で有名になれるとは限らないし、ならなくてもいい。人と比べてしまうからあせったり、落ち込んだりするのだ。自分には自分のぺースで、ある程度呑気に構えてたっていいと思う。怠けていたり、サボったりして、無駄な時を過ごしているのではなく、常に一生懸命汗を流していれば、自分のペースがあっても良いということだ。一生怠けている人は一生、何処へも行けないし、何も成し得ない。人間は常に汗をかいていた方がなにか良いことにぶつかるものなのだ。

情けないかな、僕は30才を過ぎてから多少の収入を写真で得ることが出来る様になった。その頃、ロンドンに住んでいたが、30才以前はその日暮らしだった。写真関係の仕事をくれる日本の出版社に知り合いがいたわけでもなく、ましてイギリスの会社にコネなど全くなかった。かろうじて、自分と出会った人々をたどって、たまに多少のお金になる仕事にありつける、そんな状態だった。しかし、イギリス人の友人が余りいなかった頃のアルバイトで面白かったのはロンドン在住の日本人演出家が主宰していた劇団で役者をやっていたことだ。思いもよらぬ経験だった。少年時代、周囲の児童より幾重も消極的で、人前で何かをやることが何よりも嫌だった僕が、イギリスであろうことか役者を始めたのだ。実はこの役者時代、僕はカメラを持つことを禁止されていた。「お客様からお金を頂戴してお芝居をしているのだから、役者と写真家の2足のわらじをはいてはいけません。写真のことは忘れなさい。」と座長に言われていた。だから役者のアルバイトをしていた時期、僕はカメラにあまり触れなかった。「写真家になろう、という野望を持ってイギリスにまで来たのに…」。僕の中で葛藤があった。およそ100回の舞台を終えたところで僕は退団を決めた。ビザの更新や、収入のことを考えると明日からの生活に不安は一杯あったが、再び写真を撮らなければいけないと強く思ったからだ。良いことはすぐに起こった。劇団を退団してから一ヶ月後、イギリス人の20才半ばの僕と同世代の写真家が作るグループに、唯一の日本人写真家として迎え入れられたのだ。劇団に入る前に撮りためた写真を見せたことがきっかけだった。そのグループにスポンサーがいたので、3年間、家賃無しで彼等と一緒に暮らせ、フィルム、印画紙も総て無料で思いのまま使えた。さらにイギリス人の仲間の協力で滞在ビザも延長することが出来た。

今当時を振り返ると、カメラを持つことを禁じられていた役者時代、僕は無駄な時間を送ってしまったのだろうかと考えることがある。とんでもない、無駄どころかものすごく貴重な経験だった。舞台に出演を重ねたお陰で、現在、ラジオの番組をレギュラーで持とうが、ゲストに呼ばれようが、テレビの出演があろうが、全く動じなくなったのだ。カメラ会社が企画する100人、200人の前でのトークショーなどへっちゃらだ。さらに写真を撮られる立場も、取る側の立場も両方理解出来るようになった。以前、アメリカのある写真嫌いの俳優を撮る仕事をした時、僕がかつて役者をしていたという話をしたとたん、それまでの態度が一変し、快く撮影を許可してもらったこともあった。

僕は汗をかいて、時に涙しながら未知の役者という経験に挑み、任期を終えた。その結果、写真家になりたいという夢さえ捨てなければ、自分のペースで生きていっても、人生に無駄なことなどないのだという確信に達した。今しか出来ないことをやる。自分しか出来ないことをやる。この2つが僕のいまの生きる信条だ。写真家という人生に確固たるゴールは無い。だから寄り道をしながらでも自分のペースで歩いていこうではないか。肩の力を抜いて・・・。