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【写真展のお知らせ】
ハービー・山口×国境なき子どもたち(KnK)写真展 「パレスティナー壁に閉ざされた誇り高き子供たち」
2014年4月24日(木)〜5月7日(水) アイテムフォトギャラリー「シリウス」
ギャラリートーク 4月26日 14:00〜15:30
http://www.photo-sirius.net



目の前の分離壁  パレスティナ 2013
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第92話 『パレスティナの恋 、空遠く』

僕が初めてパレスティナを体験したのはもう随分昔のことだ。1973年、僕が23歳の時、何とか写真家になりたいという想いを胸にはじめての海外生活をイギリスの南部、ブライトンという海岸に面した街で送っていた。滞在し始めて2ヶ月後、世界を駆け巡ったのがオイルショックという言葉だった。アラブの産油国が石油の輸出を制限したのだ。日本では、市場からトイレットペーパーが無くなるという噂が広がった。このニュースをイギリスでおぼろげに聞いた僕は、産油国に行って彼らの生活を見てみたいという好奇心にかられた。石油を売って富みを得ている国の生活を見てみたかったのだ。丁度、英語学校は12月の下旬に入り一学期が終わる時期だった。折角友達になったのに、生徒たちはそれぞれの国へ帰ってしまうのだった。ほとんどがイギリスに戻ってこない様子だった。初めての外国人の友達である彼らとのお別れは寂しいものである。僕は日本に帰る計画もなく何とかイギリスにかじりついていたいと思っていた。このイギリスでの生活が、僕にとって何もかもが新鮮で、新たな自分の可能性や好奇心を見届ける人生に残された唯一の時間だと思っていた。そこで学校で知りあったクエート人の若者たちに聞いてみた。その内の一人、18歳の男性は僕と同じ家に下宿していた。「君たちの国に行くから泊まらせてよ」。彼らは一様に頷いてくれた。そうした彼らを頼りに初めて中近東にカメラを持って旅することになった。こんな積極性が僕にあっただなんて、自分でも信じられなかった。
日本の友人はとっくに就職しているのだから、この僕に与えられたしばしの自由時間を思い残すことなく過ごしたかったという気持ちが、僕を積極的にさせていたのだろう。
12月下旬であったが、夜のクエート空港に到着し、機外へ出ると日本の夏に似た空気感だった。つい数ヶ月前の日本の夏、自宅近くの池上本門寺の盆踊りの暑さと喧噪がよみがえった。クエートに来て数日後、クエートの大学に行った。講義が英語で行われているのが印象的だった。国際社会で通用したいなら当然のことだった。キャンパスで一人のとても素敵な女学生に声をかけて撮影させてもらった。首を少しかしげ、まっすぐにレンズに向って微笑んでくれた。少し陰りのある表情が記憶に残った。短い会話の中で、彼女がパレスティナからの出身だと知った。「私の祖国には戻れないの、、。」英語が上手く話せなかった僕にはその様に聞こえた。この彼女に悲しみを与えているのは何なのだろう?以後僕はパレスティナという言葉を聞く度に、僕に見せた彼女の哀愁漂う黒い瞳を思い出した。海外に出て2ヶ月後、日本で決して感じたことのなかった地球の中の出来事が重くのしかかった。

あれから40年という長い月日が経ってしまった。2013年10月、KnK「NPO国境なき子どもたち」よりパレスティナに旅する機会を与えられた。KnKとはこの1〜2年、東北での活動を撮影する仕事をしたことがあったが、僕がパレスティナを旅するとになるとは思いもよらなかった。フリーランスの写真家という職業の醍醐味を実感し、そして1973年のクエートで出会ったパレスティナ出身の彼女のことが思い起こされた。

行きも帰りも一人旅である。
成田発、韓国経由のコリアンエアーは、10数時間かかり深夜のテルアビブ空港に着陸した。翌朝、ホテルに迎えに来て下さったKnKの日本人スタッフ佐藤氏とバスに乗り、KnKのオフィスのある街まで移動した。白い岩山の様な起伏が連続する道を40分程進むとアルザリヤという小さな街に着いた。街の風景が時代と競争するようにめまぐるしく変化する日本の都会と比べることは適当ではないが、道の両側に立ち並ぶ商店街の建物は粗末で、40年前のクエートの下町の様相だった。街の中心近くにはパレスチナとイスラエルの領土を隔てる分離壁がそびえていた。紛争の痕跡なのか、壁の一部が黒く焦げ、近接する空き住宅の窓ガラスは割れていた。その街の一角の新しい4階建ての建物の中にKnKがあった。そこでは近隣の子供たち、父兄、友達がやって来ては、パソコン、英語、演劇、音楽など様々なことを習っていた。
子供たちにとって、この施設の中での人々との出会いや教育はかけがえのないものに違いなかった。

分離壁は2008年に着工され、現在では約788kmの長さに及んでいるという。1989年に壊されたベルリンの壁も撮影に行ったが、3メートル位の高さだったと記憶している。それに対しこの分離壁は8メートルあるのだという。時に高台から、その分離壁は万里の頂上の様に見えたり、また所によっては一直線ではなく、一軒の家を取り囲む様に非常に入り組んだ所もあった。一軒の洒落たレストランに行った。大きなガラス張りの店作りで、壁が出来る以前は良い眺望が得られていただろうに、現在は目の前に壁が立ち塞がり、全ての眺望を奪ってしまっていた。また、その近くの新しい住宅は、土産物屋さんのお店と居住する住宅であるが、3方向をこの壁で囲まれてしまっていて、目新しい自分の部屋の窓からは、目の前の壁しか見えないのだ。
そしてその壁にはおよそ400カ所に検問所が設けられていて、そこを通過する度に我々は自動小銃を持ったイスラエル軍によるチェックを受けなければならず、パレスティナ人の往来は厳しく制限されていた。
壁というものは人類によって造られた、最も奇怪な建造物の一つではないだろうか。
さらに、入植地といって、パレスティナの国土の一部にイスラエルが民間の住宅地を作ってしまっていた。「あの丘の上に見える赤い屋根の集落ね、あれは最近建てられたイスラエル人の住宅地さ!あっちも同じ!」そうした入植地と呼ばれる一角が、まるでがん細胞の様にパレスティナの国土の各地に繁殖しているのだった。

ところが、街を歩くと道ばたで出会う人々のほとんどがとてもフレンドリーな笑顔を見せてくれた。店に入って水やパンを買うと、その歓迎ぶりはさらにアップした。
どこの街へ行ってもそのフレンドリーさは変わらなかった。会話のきっかけさえつかめば、一緒に食べろとパンやチキン、野菜などを分けてくれる。一週間位なら無一文でも生きて行けるのではないかと思える人懐っこさに、心洗われるものをずっと感じていた。日本で、もし社会に溶け込めなくて悩んでいる人がいたら、この国で一週間も暮らせば、全ての悩みは吹き飛んでしまうのではないかと思う程だった。この交わす笑顔が人と人との交流の第一歩として最も大切なものであること、また、笑顔によってどれだけ人間は安らぎを得ているのか、ということを改めて実感した。事実、一番助けられたのはこの僕だった。他人同士が豊かな表情を交わし合わない日本の都会に慣れてしまった僕は、知らず知らずに無愛想な人間になりつつあったところから、精神的に立ち直るきっかけを彼らから掴んだのである。ここで忘れてはいけないのは、毎日撮影に同行してくれたKnKのスタッフの佐藤氏の貢献だった。彼がKnKのある街では人気者で、道を歩くと何人もの顔見知りから「やー、ケン!」と声がかかるのである。他の街でも見知らぬ人たちにすーっと寄って行って会話が始まるといった具合だった。そんな彼の行動のお陰で僕はいち早くこの国の空気に馴染んでいけたのだった。

ある日の夕暮れ、僕と佐藤氏は食料品屋さんと隣の羊の肉を売る店のご主人と話していた。肉屋さんのガラスのウインドーには3センチ大の穴が空いていて周囲が放射線状にひびが入っていた。先週起こった投石や催涙ガス弾の応酬で、この穴が開いたという。「怖くて店の中の大きな冷蔵庫の中に隠れたんだ」そんな彼らは口を揃えて言った。
「俺たちパレスティナ人もイスラエル人も兄弟同士なのにさ、なんで殺し合わなければならないんだ。政治がいけないのさ」。さっきまでの笑顔は消え、どうにもならない国家の運命を嘆いた。
また、KnKの女性スタッフは「子どもたちには恐怖を感じないで暮らせる人生を歩んで欲しいの、いつか大人のなったら幸せをつかめる、そうした希望を決して失わないように生きていくことを教えたいの。世界はパレスティナ人のことをテロリストだと言うけれど、私達はテロリストなんかじゃない!誰だって殺し合いなんてしたくない。ただ私達はパレスティナ人として平和に暮らしたいだけ!」と語ってくれた。

僕の写真は相変わらずスナップ・ポートレイトとでも言うのだろうか、人と会話をしながら、その人らしい表情が浮かんだ時にシャッターを切っている。パレスティナの人たちはとても奥深く美しい瞳を持っている。特に少年少女の瞳には僕の心のすべてを吸い込んでしまいそうな魔法の力が宿っている。そしてことさら感動的だったのは、自分の国がやがては無くなってしまうかも知れない現実を何年も何年も実感しているのに、決して彼らの瞳は濁っていないのだ。そうした瞳を見た時、僕は彼らのパレスティナ人としての誇りを撮れば良いのではないかと思い始めた。そうした想いでカメラを彼らに向け始めた。だがファインダーの中に確実に彼らの瞳にピントを捉えた時、ふと見せるある種の感情、、。それは優しさの中に漂うどこか悲しさだ。その瞳は1973年、クエートの大学で見かけたパレスティナの女学生の瞳と重なるのだった。あの彼女はどうしているのだろう?今60歳くらいになっている筈だ。どこかで幸せを掴んでいるのだろうか。

10日程の滞在の最終日、KnKに良く来る家族が、この国の一番のポピュラーなご馳走である、チキンとご飯を一緒に炊いた料理を僕に振る舞ってくれた。「あの家庭の経済はかなり困窮してますから、多分2〜3日分の食費を節約して料理したと思いますよ」と佐藤氏は教えてくれた。

23時過ぎに出発の帰国便だったが、夕方前には空港に向かわなくてはならない。検問や空港での厳重な荷物チェックに備えなくてはならないからだ。空港へ移動する1時間前、KnKに集まる子供や先生、それと顔見知りになった近所の子供たちを連れて、歩いて10分ほどのところの壁に行った。彼らに横一列に並んでもらって写真を撮りたかったからだ。これがパレスティナの最後のカットとなるだろう。そこに行くには急な坂を登りつめなくてはいけない。その坂を子供たちと競争しながら登ったが、僕はすぐに息が切れてしまった。10代半ばの女の子たちははしゃぎながら急な坂も意に介せず、笑い声をあげ駆け足で僕を追い抜いた。一人の女の子が僕を追い越し際に、恥ずかしそうにたどたどしい英語で「I Love You!」と言ってすぐに後ろ姿を見せた。彼女はいつも僕を見つけるたび、真っ先にカメラの前に駆け寄って来てくれた子だった。ちょうど傾き始めた午後の太陽が、彼女の揺れる黒髪を明るく輝かせていた。坂の頂上にある壁に着くと、高い壁の上端ぎりぎりに太陽がひっかかっていた。その光が横一列に並んだ彼ら彼女らを美しく照らしていた。これでこの国とお別れしなくてはならない。切なさと、皆と友達になれた嬉しさが交差する中、最後のシャッターを静かに切った。

地球の中の出来事の一つが、2台のカメラの中と、僕のこころの中にしまわれた。
11月上旬の夜、僕はテルアビブ ベン・グリオン空港を発ち、日本へ向かっての飛行ルートを辿っていた。
彼らは将来、幸せを掴むことの出来るのだろうか、、?
僕たち日本人が人間として彼らに出来ることは何なのか?
パレスティナの白い国土と透き通った空、そして笑顔と握手を交わした彼らの温度と黒く美しい瞳を決して忘れてはいけないと強く思った。