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TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第95話 『100Years of Leica Photography』


【写真展のお知らせ】
ハービー・山口の写真展 「Wetzlar」が、ライカギャラリー東京にて開催中。
ハービー・山口がWetzlarを歩いてライカのカメラでとらえた作品14点を展示しています。
2015年4月12日(日)まで。
> ライカギャラリー東京はこちらより



放課後の陽射し  ハンブルグ 1974
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第95話 『100Years of Leica Photography』

1974年、ロンドンに住んでいた私は、小学校と中学時代の友人O君を尋ねて陸路を経てこの地ドイツのハンブルグに来たことがあった。

O君は中学時代に私と同じ様にブラスバンド部に所属しホルンを担当していた。私は写真部に鞍替えをし、現在に至る訳だが、O君は高校に入ってもホルンを続け、現役で東京芸大に入学しホルンを専攻した。それだけでは収まらず、ここドイツのハンブルグに師を求め、腕を磨いていたのだった。

当時、イギリスのビザが切れかかっていた私はハンブルグにO君を尋ね、数日したらまたロンドンに戻るつもりだった。
イギリスに無事再入国出来たら、また6ヶ月はイギリスで過ごし、私の写真家になる夢に近付く旅を続けたいという計画だった。
ハーゲンベックティアパークという動物園がある街の、閑静な緑の多い一角にO君の住んでいる学生寮があった。あれは確かこれから春を迎える季節だったと記憶している。

私もO君も24歳で、久しぶりに再会した二人は水を得た魚のようにはしゃぎ、思わぬ楽しい時間を過ごした。
特に印象的だったのは、O君の日本人の音楽仲間たちだった。それぞれ音楽の一流の大学を経てこの地のオーケストラで活躍している音楽家たちだった。
彼らは同じ日本人であっても少々毛並みの違う、ロンドンファッションに身を包んだ写真家と称する私を素直な好奇心と共に、仲間として迎えてくれたのだった。

毎夜誰かの部屋に数人が集まり、お茶やおつまみを用意しての集会が始まった。
私の耳元で奏でられる彼らの専門の楽器の音色はさすがに美しく、私の心を揺さぶった。
まろやかなオーボエ、流れる様なピアノ、聴覚の隅々まで響き渡るバイオリン。
そうした中で彼らが私に求めたのは共演であったが、そんなことが出来る訳がない。策に窮した私はO君にギターを即興で弾いてもらい、その旋律や長調、短調のグルーブに合わせて即興の物語を作るというものだった。
私の紡ぐまさに陳腐なストーリーが、ある意味彼らのアカデミックな感性を逆に刺激し、大いに受けたのである。灯りを落として床やソファーに腰掛けた彼らは、私のストーリーに笑いをこらえるのに必死である。彼らにとって、突然ハンブルグに現れたロンドンからの訪問者である私は、珍客として歓迎されたのであった。

昼間に近くの原っぱに出ると春の緑に萌える芝生が美しく、ロンドンの私が暮らしている下町ブリクストンの半ば怪しく雑然とした雰囲気とは対称的で実に心休まる光景だった。陽が少し傾く頃には近所に住む十代半ばの仲良しの女の子たちが犬を連れて散歩に来る。
彼女たちともすぐに顔見知りになり、逆光に輝く長いブロンドの髪と清く澄んだ横顔にカメラのピントを合わせる私であった。
そして街の中心地に行くとアルスター湖の輝きが一面に広がり、さらなる自然の美しさを胸に刻んだ。

当初は数日でロンドンに戻るはずだったが、こうした居心地の良さが手伝い2ヶ月もO君の部屋に居候してしまったのであった。エルベ川の凪いだ水面を滑るように出航するイギリス行きの船に乗って、ハンブルグを離れる時に際してはさすがに感無量だった。またイギリスに戻って私は写真家になる夢を抱きながら、どんな人生が待っているのかも見当つかぬままの生活を再び続けるのである。

1990年代の中頃であったか、再びこのハンブルグを訪れる機会があった。布袋寅泰さんのドイツでのコンサートに同行した時だった。野外のステージでブロンディーの前に布袋さんが登場した。布袋さんの重厚なギターソロは圧巻であったし、あの名曲CALL MEを歌うブロンディーの生の姿を目前で見た初めての機会だった。


そして2014年11月、三度このハンブルグを訪れる機会に恵まれた。
2014年はライカ0型が出来て100年が経った記念の年で、その5月にはライカ発祥の田舎街Wetzlarに招待された。
その時にこの100年にちなんだ写真展“Eyes Wide Open!100Years of Leica Photography”「目を開け、ライカ写真の100年」という写真展が企画されていることをドイツ人のキュレーターから知らされた。
彼の話ではこの写真展はライカ社が100年の歴史の中から140名の写真家と500点の作品を選出し展示するという、かつてない大規模な写真展になるということだった。

2014年の夏であったが、何とこの写真展に私の写真を4点展示したいという連絡がドイツから来た。これ以上ない名誉な話であった。なにせ100年の歴史の中で、ロバート・キャパ、カルティエ=ブレッソン、ブルース・デイビットソン、ラルフ・ギブソン、こうした物故者も含めた歴史的写真家が名を連ねるわけであるから、たとえ末席にでも私の名前が連なることは最高に嬉しいことであった。

House of Photography Hamburg  2014
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この写真展を開催地のハンブルグに見に行ったのが2014年の11月であった。「House Of Photography 」というかつての駅か倉庫を改築した大きな建物が写真展の会場であった。
関心の高さなのか、日曜日ということも相まってかなりの人の入りであった。500点の写真が年代順に変化をつけながら堂々と整然と展示されていた。
写真の大きさは平均的には16×20インチ、つまり半切大で、フレームの種類やマットの使い方が少しずつ違っていて、500点もあるのに決して飽きさせない展示だった。有名な歴史的写真が連なっているのだから、作品に備わった実力があることと同時に、こうした展示のセンスの良さが功を奏しているのだと実感した。

偶然にその日はキュレーターのコッツラー氏がギャラリートークをする日に重なり、50〜60名程のお客さんが氏の周辺に集まっていた。ギャラリートーク開始前、氏は私の顔を見つけると歩み寄って来て、私の写真の所に差しかかったらミニトークをしないか、と提案した。1時間後にトークの集団が私の写真の所に差しかかった。そこには日本人写真家のコーナーで、私の4点を含む9名の日本人写真家の作品を展示してあった。
澤田教一、浜谷浩、高梨豊、荒木経惟、セイケトミオ、田原桂一、桑原 甲子雄、岡原功祐である。そして500ページにも及ぶ、図録というには立派過ぎる写真・資料集には1200点もの写真が掲載されており、日本のライカ写真のページには飯沢耕太郎氏の文献が載っていて、木村伊兵衛、土門拳、北井一夫、オノデラユキといった写真家の解説が書かれてあった。

さて、コッツラー氏がにこやかにマイクを私に預けたのである。ライカとコッツラー氏がこの展示に選んだ絵柄は東北の震災を撮影した4点だった。
おそらくロンドン時代のミュージシャンのポートレイトを選ぶだろうと想像したが、彼らが選んだのは
「日本人のあなたが世界に見せなければならないのは、これでしょ!」
と言わんばかりの東北の人々の写真だったのである。

この写真の前で私は話し始めた。
「この写真は、避難所で久しぶりに再会した3世代、つまり、おばあちゃん、お母さん、娘さんの3世代の手です。おばあちゃんは避難所での生活のストレスなどが原因で昨年他界しました。そして、次の写真はダメージを受けた結婚式の記念写真を洗っているところです。震災前には、自分には家庭があって、奥さんがいて、子供がいた、、、彼のそうした過去の素晴らしい思い出を物理的に証明出来るのはこの写真だけになってしまいました。」
私の説明を聞きながら目に涙を浮かべる人が何人もいたのが印象的だった。

4点を説明した後、ライカのカメラについても語らなければならないと思った。
「私は32歳の時に始めてのライカをロンドンで買いました。ライカというカメラは私たち写真家に、撮る勇気を与えてくれるカメラなんです。そのことはとても写真家には重大で、もしかしたら私は自分の奥さんよりライカを愛しているかも知れません。ですからこの100年、ライカ社はライカを使う写真家の伴侶から、大いなる嫉妬の念を受けてきたことになるのです!」
会場に大きな笑いと拍手が起こり、私はマイクをコッツラー氏に戻し一礼した。
その時、私の胸に一つの感覚が起こった。

2011年の東北での震災が発生してから、何度となく東北を訪れた。
現地で写真家なら誰でも感じたであろう感情。それは困っている人たちにカメラを向けることのためらいだった。この人たちの苦労や不幸を、自分の写真の為に利用しているのではないだろうか、、。
沢山の漁師さんたちが黙々とガレキを片付けている所に出会わせると、その場を黙って立ち去ろうとする自分がいた。
そんな時いつも写真の神様の声が聞こえた。
「お前はずっと人々を撮ってきた写真家ではなかったのか?今こうして復興に命を賭ける人々の姿を撮らないで、何を撮ろうというのだ!」
すると自然とある言葉が出て来た。
「東京から写真を撮りに参りました。皆さんの復興に賭けるそのお姿、一枚シャッターを切らせて下さい。そのお気持ちを世界に届けます!」
すると一人として「撮らないでくれ」、という方はいなかった。

日本ではそうして撮った写真が「HOPE311 陽、また昇る」という写真集になり、また幾度となく写真展で発表した。しかし、世界に届けるということは果たせていなかった。
それがこの写真展でライカ社の力を借りて少しばかりは叶えることが出来たのではないだろうか。

イギリスの華やかなロックスターのポートレイトではなく、あえて東北の写真を選び、それを写真展と図録に納めることで、東北の記録を未来の100年に残そうとするライカ社の選択と意思に敬服するのである。この写真展はハンブルグの後、2年間かけてドイツの主要都市数カ所を巡回することが決定している。その後にヨーロッパやアメリカ、そしていつの日か,ここ日本にも来るかもしれない。

2014年11月のある日のアルスター湖は、北ヨーロッパの冬には珍しく強い太陽が湖面に反射していた。
湖に面したカフェに入るとハンサムなウエイターが勢い良くビールを運んで来た。

1974年春、実に40年前、24歳の私は写真家になる夢を胸一杯に抱えてこの街を歩いていた。
あの時出会った日本の音楽家たちことがふと頭をよぎった。

彼らは楽器で、私はカメラで今もそれぞれの理想の表現とテーマを追い求めているのに違いなかった。