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第17話 『 スランプ撃退 』

第6話にプチスランプというエッセイを書いたが、ここに来て再びスランプという言葉が僕から離れない。誰にでもそのスランプはあるものだ。プロでもアマチュアでも、写真家でも野球選手でも。
 出来上がったベタ焼きを見て、これは良いカットだというのが一枚でもあれば気を良くするが、一枚もないと気を落としてしまう。どんな高名な写真家でもこの一喜一憂は仕方の無いことだ。ところが一喜がなく一憂だけ続くとスランプということになる。僕にもスランプの経験は何度と無くあったと思う。あったと思うという曖昧な言い方なのはいつがスランプに陥り、いつ抜け出したのか、はっきりとした線が引けないからだ。いつの間にかスランプから抜け出して作品を生み始めているのだ。何年にも渡り、作品が全く撮れない、とか撮りたくない、というスランプは経験がない。スランプでも仕事は舞い込んでくるから写真はずっと撮り続けているわけで、仕事のサイクルの中にスランプは呑み込まれてしまうのだろう。仕事がスランプを忘れさせてくれるとすれば、これは幸せなことだ。ところが100%純粋な作家活動だけをしている芸術家はどうだろうか。依頼仕事というのが通常無いわけだ。するとスランプは如実にその作家の創作活動に影響してくる。依頼仕事の来ないアマチュア写真家もスランプに陥ったら辛いだろうと思う。自分自身の力でスランプを乗り越えなければならないのだから。

 ところが僕の場合、依頼仕事が来ると状況が変わってくる。例えば CDジャケットの撮影の場合、一緒にいるアーティストのパワーというかオーラを直に受けることになるから、彼等が一流であればある程、特別な高揚感を僕は覚え刺激されることになる。するとスランプなど一気に吹き飛んでしまうのだ。また、その撮影で普段自分の意思では行かない様な所へも行く。そして被写体になっている人が有名なら見物人も集まってきて、その見物人が特に有名人を目の前にしてすごくいい表情を見せる時がある。こんな時、小休止の時間やフィルムチェンジの間を利用して、カメラバックからライカを取り出し人々にカメラを向けると、思わぬ素晴らしいカットが撮れることがある。また、この一瞬のチャンスにアーティストにカメラを向けると、リラックスしたプライベートで素敵な表情を見せてくれることもあるのだ。ここで確実に作品を一枚でもものにする。するとこのきっかけでスランプを超えられるのだ。野球選手にたとえれば打率は低迷しているのに試合に出してもらい続け、チームが連勝している騒ぎに紛れ気がつけば自らもヒットを打てたということだ。選手は自分を使い続けてくれた監督に感謝しなければならないし、僕は仕事が多少でも舞い込んでくることに感謝しなければならない。

 かつてエリオット・アーウィットにスランプの時はどうするのですか、と尋ねたことがある。彼の答えは「古いネガをもう一度見直してごらん。きっと埋もれている名作があるよ。僕の写真で車のバックミラーにキスしているカップルが写っている写真があるんだが、そのカットは撮ってから何年も経って偶然見つけたんだよ。そんなことがきっかけになってスランプから抜け出せるだろう。」だった。第6話に書いた様に植田正冶さんは、「スランプになったら使うカメラを変えてみなさい。」とおっしゃった。何かのきっかけがスランプから救ってくれるのだ。ここで大切なのは撮りたい被写体に出会うまで、決して写真をあきらめてはいけない、ということだ。撮りたい被写体に恵まれることが写真家にとって最も大きな幸せだという事実は決してゆるがないのだから。