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第22話 『 ハービー・マン 』

僕の名前を見聞きした方からよく尋ねられる。「なんでハービーなんですか?」 もっともな質問だと思う。ハーフでもない純粋な日本人の僕がハービーである。この名前に大いに違和感を持つ人も多くいるだろう。

僕にハービーというニックネームがついたのは僕が10代の終わりから20代にかけての時だった。その頃、友人がやっているフォークバンドに下手なフルートのパートをもらって参加していた。僕が始めてフルートを手にしたには中学1年の時だった。小学校の頃より憧れていたブラスバンド部に入部しフルートを担当したのだ。そのブラスバンドは僕が低血圧や体の弱さで朝練についていけず、半年でリタイヤしてしまった。退部して初めて分かった寂しさが襲ってきた。僕はすべての自信や希望を失い数ヶ月の引きこもりを経験した。この世界に一人でも良いから僕の気持ちを解ってくれる人がいたらと願っていたが、残念ながらそういう人は周囲に誰一人いなかった。親に買ってもらったフルートはずっと大切にしまってあった。10代の終わり、バンドに参加するにあたり再びフルートを引っ張り出してきた。

その頃、僕が尊敬し憧れていたフルート奏者がいた。アメリカで活躍するジャズフルーティスト、ハービー・マンだった。彼のレコードを聴きあさり、コピーをしようとやっきになっていた。もちろん僕の稚拙なレベルでは無理なことだった。そんな僕を見てバンド仲間が「ハービー」というニックネームをつけてくれた。その時と前後して医者が僕にこんなことを言った。生まれて3か月で患った腰椎カリエスという病気がほぼ治癒したので、無理をしなければ健常者として生活できるだろう・・・。カリエスとは結核菌が骨に転移し骨を腐らせてしまう病気だ。第一から第五まである腰の骨がやられてしまった。小、中学校は体育の授業をずっと見学していた。高校3年になって腰の負担が軽い種目だけ参加した。特に小学校の頃、腰がひどく痛んで、ゆっくり歩くのが精一杯だった。横になっている時が多かった。時に体調の良い時、自宅の庭で兄と好きなキャッチボールをした。そんな時、運悪く、学級委員が通りかかり僕が遊んでいるのを目撃した。翌日の朝礼でその学級委員はさっと手を揚げ、クラス全員の前で誇らしげに言った。「きのう、山口君の家の前を通ったら野球していました。体育を見学するのはずるいと思います。」 

こうしたことは数えきれない。僕は次第に人の後ろに隠れるように、息をこらし生きるようになった。遠足に行っても昼食のお弁当を食べる輪に僕は入れなかった。僕と母は皆とすこし離れた所でお弁当をひろげた。孤独と絶望に打ちひしがれた暗い影が、10代、または幼い時のほとんどの日々を覆っていた。この病気が治るというのだ。僕にとって未知の健康な生活が始まるのだ。その新しい人生をハービーという名前で生きてみたいと思った。夢があって、いつも笑顔で、健康で、人から愛される人間像をハービーという名前に託した。

以来30余年、僕の名前はハービーで通している。この名前は10年すんだイギリスでは大いに受けた。ヤマグチという音がイタリアのオートバイのモトグッチに似ていて、どこかエキゾチックなニュアンスを受けるらしい。イギリス人の友人の女の子達から、あなたの様な名前を付けてみたいわ、と何度か言われた。きっとこれからもハービー・ヤマグチは僕の人生と写真と共に生き続けるだろう。さらになお、人々に愛されることを願いながら・・・。