out
 

TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第64話 『「あの頃 ロンドンで、、。』

第64話 『あの頃 ロンドンで、、。』

一通のオープニングパーティーの招待状が届いたのは先月のことだった。 カードの表には、あの有名なLONDON CALLINGというクラッシュのジャケット写真が印刷されていた。 ポール・ジムノンが、ベースギターを演奏中のステージ上で、床に叩き付けている、とても印象的な写真である。 この写真を撮ったのは、ペニー・スミスという、クラッシュのツアーにも動向していた、イギリス人の女流写真家であった。

招待状には、このジャケットをデザインした、イラストレーターでありグラフィックデザイナーで、一昨年急逝したレイ・ローリーの偉業を讃え、彼のスケッチの展示や彼へのオマージュを捧げたUKや日本のクリエーター達の作品を展示するという説明が書かれていた。

会場には、確かにコンサートの模様を描いたイラストとか、ペイントを施した革ジャン、壊れたギターの破片などが飾られていたり、CLASHという文字の書かれたTーシャツが売られていた。
僕の最も目を惹いたのは、ペニー・スミスの撮った、ジャケ写に使われたオリジナルプリントだった。舞台袖から撮られたその写真はピントを合わせる間もなく、ギターを床に叩き付ける瞬間を撮ったもので、デザイン上かなりトリミングされて使われていることがわかる、貴重なものだった。
この展示会での売り上げは、レイ・ローリー財団に寄付され、若いアーティストの育成に充てられるそうだ。

だが、残念なことに、会場には熱気とか、興奮とか、当時の空気感を彷彿とさせるものがほとんど感じられなかった。 まして、今の日本の若者が、およそ30年前、ロンドンで流行っていたことにどれだけ興味を持つだろうか。

僕は、会場を一回りするうち、ここに欠けている決定的なことに気がついた。
それは、パンクというムーブメントは何だったのか、というメッセージがないのである。
30年前と現在とをつなげるパイプの様なものの欠如だった。

この展示会を企画した一人が、僕が古くから知っているTさんという女性だった。
僕は、招待状のお礼かたがた、Tさんにメールを送った。長々としたメールになってしまった。
しかし、書かなければならないメールだった。

すぐに返信があった。
「ハービーさんの文章で、はじめてこの展示会が完結すると思います。会場にこの文章を展示しても宜しいでしょうか。」
もちろん、僕は快諾した。

以下がそのメールだ。
先日は、お久しぶりにお会い出来、ありがとうございました。
ペニー スミスのオリジナルプリントが見られて感激しました。
当時、彼女とは、ライブの撮影で一緒になったことが何度かありました。
1978年前後が、ライブの時の唾飛ばしが一番激しく、観客のステージに向かって飛ばす唾と、ミュージシャンが、 客に向かって吐き返す唾が、全部フォトピットと呼ばれる、客席とステージの間にある、カメラマン用の狭いスペース に落ちて、2〜3曲撮るだけで、髪の毛とカメラは唾でびっしょり、ヌルヌルになり、滑ってフィルム交換も容易に出来ない 状態でした。
僕とペニーは苦笑いを交わしながら、撮影を続けました。

また、僕のトークショーで今でも話しますが、1980年か81年のことでしたが、地下鉄セントラルラインの駅で、ジョー・ストラマーを見かけたのです。 プライベートな時間なので、撮影は控えましたが、こんな千歳一隅な出会いは二度とないと思った僕は、思い切って 彼に話しかけました。
「写真を撮ってもよろしいですか?」
彼は意外にも、笑みを浮かべ撮影をOKしてくれました。
すぐに列車が来て、僕たちは同じ車両に乗り込みました。
列車に揺られながら彼が降りる駅まで4〜5枚撮りました。
列車が駅で止まり、彼がホームに降りようとする瞬間、彼は僕に向かって言いました。
「撮りたいものはすべて撮るんだ!それがパンクなんだ!」
彼のこの一言に、人間の生きるすべての思想が言い尽くされていました。これからどうロンドンで生きて行こうかと、目的を見失いがちだった僕の心の中に、一条の光明が差し込んだのです。
この一言が、後の僕にどれだけ影響を与えたかは、計り知れません。
その時のジョーの僕に向けられた視線は信念と誠意にあふれ穏やかで真っすぐでした。
僕は、この時の会話を、いまでもトークショーの度に人々に伝えています。
つい先日も、山梨県の300名の高校生に向けての講演会でこの話をしました。その結果「話を聞いて鳥肌が立った、留学を迷っていたけど人生の決心がついた」という感想が寄せられました。

1978年、一年間ほどでしたが、イギリス人のフランキーという女性が僕のガールフレンドで、一緒に暮らしていました。
彼女は、シッド・ビシャスのかつてのガールフレンドでした。
フランキーはジョンという男との間に生まれた、マイルスという3歳になる子供と二人住まいでした。
そこに僕が一緒に住み始めたのです。
彼女は、2〜3年前の、パンクムーブメントが起こる直前のことを良く僕に話してくれました。
その話によりますと、マイルスが生まれたばかりの頃、子供服を買うお金がなく、自分のTーシャツを彼に着せていたんです。 当然、赤ちゃんには、サイズが大きすぎるので、丈や袖を、いくつもの安全ピンを使って、サイズを赤ちゃん用に合わせていました。
ある晩、友人だった、ビビアン・ウエストウッドや、マルコム・マクラレンらと、クラブに行く日、 洗面台でメイクをしていたフランキーは、ピアスを床に落としてしまい、なくしてしまいました。 そこで、彼女はマイルスのTーシャツから安全ピンを二つはずし、両耳の穴に通して出かけて行ったのです。
クラブで合流したビビアンとマルコムは、フランキーの耳に刺した安全ピンを見て、
「That' a great idea!!」と驚きの声を上げ、
その日から、安全ピンがパンクのアイテムになったのでした。
当時、ビビアンはまだデザイナーとして確立していなく、セックスエイドの商品を売る店を開いていたそうです。
 フランキーや周囲の同世代の若者から、いろいろな考え方やアイデアをため込んでいた時期だったと思います。

階級意識が強かった1970年代のイギリス。若者は、自由になることに憧れていました。
「自分たちの手で、新しい自由な生き方を作ろう!古いしきたりや権威に従属したり、常識にとらわれるのはまっぴらだ!」
これがパンクの創始者たちの主張です。決して暴力的なものではありませんでした。

そして1976年、オックスフォード・ストリートの100番地にあったライブハウス「100クラブ」で、ピストルズ、クラッシュ、スージー&バンチィーズが出演したコンサートが きっかけでパンク・ムーブメントが世に知られることとなるわけです。

僕の知る限り、ジョーが、パンクのヒーローの中で最も紳士的な人でした。
彼は、下層階級の出身ではありませんでした。しかし、社会的に弱い人間の心の痛みを、誰よりも知っていた人間だったと思います。
クラッシュの初期、多くの下層階級の若者たちがコンサートにつめかけました。中流階級の家に育ったジョーに対し、観衆はウイスキーの瓶をステージ上のジョーに向かって 投げつけたのです。
これに対し、コンサート中盤、ジョーは観衆に向かって叫びました。
「お前ら、そんなことをすることでしか、自分を表現出来ないのか!」
次第に観客はジョーを認めていきはじめました。
ジョーは、かなり悩んだと思います。中流階級出身の自分が、下層階級の貧困に悩む人々の心を本当に理解出来るのかと、、。
以来、ジョーの中で、自分の立場や意識が徐々に変わってきました。つまり、自分が有名になり、時代にヒーローになろう、そしてお金が沢山入ってくる、という、いわゆる ロック界のもくろみを捨て、人々、とりわけ、自分より弱い人たちのために音楽をプレーしようという意識が強くなっていきました。
彼は、一時期、バンドのマネージャーに言いました。「俺たちのファンから金を儲けようとは思わないでくれ、、。」 彼のこうした意識を裏付ける様に、日本でもコンサートが始まる前、会場の外に出てきて、往来する人たちにチケットを配っているジョーの姿があったそうです。
1970年代の後半だったでしょうか、ロンドンの彼らのオフィスに行くと、クラッシュの何人かが嬉しそうに、「新しい車を買ったんだ!!」とはしゃいでいました。
凄く高いロールスロイスの新車でも買ったのか、と一瞬思いましたが、彼らの前には、ボロボロの中古車が一台置いてありました。

1981年、あのセントラルラインの地下鉄での、僕に向けた一言、、。「撮りたいものはすべて撮るんだ!それがパンクなんだ!」
 恐らく、ニコンを持った東洋人の礼儀正しい僕に向けて、最高のメッセージを言い残したい、というジョーの優しさが生んだ行動であったと思います。

ジョーが僕に託したあの一言、、。僕は、この一言を一生、世界の若者に、ジョーに代わって発信していく責任を感じさえすらします。
どう人生を生きたら良いのか迷っている僕たちに向けての魔法の言葉。

彼らが見せた、パンクという「新しい自由な生き方」は2010年の現代でも通用するものです、先の山梨県の高校生の決心を見ても分かるように、  また、希望を失いかけている現代の日本や世界の若者に対し、生きる勇気を与えるインパクトと内容を持っているものなのです。
 つい最近も、あるミュージシャンのブログにこう書かれてありました。
「ハービー・山口とジョーがロンドンで交わした言葉、これを聞いて、すべての俺の悩みが氷塊した!」

僕自ら1970年初期には、黒人とインド人と最下層のイギリス人しか住んでいなかったブリクストンに住んでいました。
その後、ジョーの発した本音の言葉を受け、写真集やエッセイ集に、この時代の事実を残せた僕は、 むしろ同時代のイギリス人より、さらにディープなロンドンの素顔に触れていた、ごくまれな、幸運な写真家だったと思います。
 僕のロンドンの写真集に載っている、「Joe with a roll up」というタイトルのジョーのポートレイトを、数年前、イギリスの田舎に住む、彼の奥さん、ルーチェにお送りしたところ  「80年代のベストはジョーのポートレイトだ!」というお褒めを頂きました。

今回の展示会に於いては、パンクを過去の伝説として見せるのではなく、未来に続くものだということを、お客さんに感じて頂くことが開催者の責務だと思っております。
「パンクの精神を未来へのメッセージとして若者に伝えていくこと」これこそが何よりも、天国のジョーが望んでいることなのです。