out
 

TOPページ > ハービー・山口の「雲の上はいつも青空」 > 第66話 『心と心』

第66話 『心と心』

散歩がてらに中目黒川沿いを歩くと、新しいブティックやレストランが知らぬ間にオープンしている。気になる店には立寄り、店員さんと顔見知りになるのはとても楽しい。一昨年、代官山の洋服屋さんに初めて入り、十字架のペンダントを買った。それがきっかけで若いオーナーと懇意になり、写真の話などをしているうち、次のコレクション用に僕の撮った写真をT-シャツにプリントして販売することになった。お客としてお店で買い物をしたのがきっかけでこんな展開があるのだ。中目黒、代官山、恵比寿近隣にはこうした新たな世界が広がっている。
1999年の春先だっただろうか。僕はイギリス人のピーターという男性と表参道を歩いていた。ピーターは、ピーター・ポールという名前で1980年代の中盤、日本でファッションモデルをしていた。彼の長身と王子様の様な甘いマスクは、たちまちに日本人女性のこころを捉え、ananを始めとする人気カルチャー誌やファッション誌に引っ張りだこの人気モデルだった。
彼が一番最初に来日したのは1981年の11月のことだった。僕が1973年に日本を離れイギリスに渡り、最初の帰国が日本を出発してから8年半が経った頃、日本のファッションブランドMENS BIGIから、日本に一時帰国して新作を撮影するというお仕事を幸運にも頂いた。ロンドンから男性10名程をモデルとしてまた、僕を写真家として日本に呼び寄せるという大きなプロジェクトだった。ピーター・ポールはそのモデルの一人だったのだ。
1980年になろうとしていたロンドン。僕は日本のファッション誌の依頼で女性モデルを探しにエリートという大手のモデルエージェンシーに行き、何十枚ものコンポジットを見ていた。その中に男性のコンポジットが一枚混ざっていた。その男性の余りの甘い美しさにこころ打たれ、そのコンポジットを頂いて帰った。そのコンポジットこそがピーター・ポールと僕の初対面だった。
それから半年後、W8GALLERYという新しい画廊のオープニングのパーティーでピーター・ポールを偶然見かけた。コンポジットの写真と寸分変わらぬ貴公子ぶりですぐに彼だとわかった。
僕は彼の所へ行って、一言二言の挨拶を交わした。彼はその甘いルックスそのまま、実に温厚でフレンドリーなイギリスの青年だった。
さらに一年近くが過ぎた。
1981年11月、MENS BIGIの仕事で8年半振りの英国から日本への出発当日、僕と10名程の男性モデルがヒースロー空港に指定の時間に集まった。僕には皆初対面のモデル達であるどんな人たちと合流するのだろう。僕の興味は尽きなかった。モデルといってもプロのモデルだけではなく、顔立ちの良い写真家、映画製作者などのアーティストが含まれていると聞いていた。エアロ・フロート、ソ連航空のカウンターの近くにすでに集まっていた彼らを見て僕は目を疑った。なんとその中にピーター・ポールがモデルの一人として物静かな笑顔を見せていたのである。

彼らにとって初めての訪日である。ファッションショーの出演、流行通信誌様のグラビア撮影など彼らとの仕事は順調で、オフの日は彼らは十分にTOKYOを楽しんでいた。特にピーター・ポールは瞬く間に人気ものになり、数ヶ月後、モデルとして個人的に再来日し、しばらくの間日本に住むことになった。思わぬ彼の日本での青春時代スタートであった。僕とピーター・ポールとはとても気が合い、日本に滞在中はもちろん、英国に帰国しても連絡を取り合い交流が続いた。彼が書いた小説の中に、ハービー・山口という名で僕が登場したこともあった。
彼と僕とは、表現者同士の共感を抱きつつ、人種を超え人間として、深く心と心がつながっていたのだと思う。
1999年、何年か振りで来日したピーター・ポールは僕に連絡をくれ、表参道で再会した。イギリス人のデザイナー、ネメスさんのお店に行き、僕たちはお揃いのネクタイを買った。
そのネクタイを早速着用して、僕たちは交差点近くの目新しいカフェに入った。
その店で若く可愛いウエートレスが働いていた。彼女がビールを運んでくきてくれた時、彼女の写真を数枚撮らせてもらった。笑うでもなく、愛想が無いでもなく、好奇心に満ちた視線をカメラに向けてくれた。
2003年、僕はアップリンクから出版した「PEACE」という写真集にこのウエートレスの写真を掲載させて頂いた。こちらから彼女への連絡の方法はなかった。
1999年、吉村玉緒は故郷長崎を後に、女優になる夢を果たすため、親の反対を押し切って東京に来た。23歳だった。故郷の長崎と違って東京は見るもの聞くもの全てが吉村玉緒にとって新しい、未知のものとの遭遇だった。東京に来てすぐにウエートレスの仕事に就いた。お店は表参道という東京でも最もファッションに敏感な場所にあった。アポも取らず飛び込みでこの店に入り、働きたい旨を告げると、彼女の熱意を理解したカフェのオーナーが即決で雇ってくれた。お客さんの格好も立ち振る舞いも、洗練度もなにもかもが長崎とは違うことを実感した。仕事に就いた翌日、写真家なのか、一人の大人の男性のお客さんがにこやかな、優しそうな顔をして玉緒にカメラを向け、数回のシャッターを切った。この男性は長身の外国人とビールを飲んでいた。外国人と一緒、これも玉緒にとっての眩しい東京の姿だった。
東京は恐ろしいところだ。こんなに優しそうな表情をした写真家然とした男が、私に何気なく近づいてくる。私にカメラを向けシャッターを切り、そして何事もなかったように去って行く、、。私はこうした男にだまされないぞ!」
玉緒はこれからの東京での生活に向けての自己防衛本能を再確認して身を引き締めた。
それから4年が過ぎた。玉緒は事務所に入り、なんとか女優としてテレビに出演出来る様になった。
ある日玉緒は、、事務所仲間と一緒にとあるバーに入った。ドリンクを注文した。しばらくしてカウンターの中の男性が玉緒の顔をしげしげと見ている視線を感じた。するとその男性が一枚のポストカードを玉緒に差し出し、意外なことを言った。「これ、お客さんですよね!?
手に取るとそのポストカードは写真展を案内するフライヤーだった。玉緒は驚いた。なんとそこには玉緒自身が写っていたのだ。
「この写真??」
玉緒はすぐに思い出すことができた。「私が長崎から東京に出て来て二日目、ウエートレスをしていたところを、写真家らしいお客さんが働く私の写真を撮って行った、、。あの人は本当の写真家だったんだ、、。」
フライヤーに書かれた「PEACE」という写真展に行ってみた。
そこで、玉緒は写真家、ハービー・山口と再会することになったのである。
2010年の暮れ、僕は玉緒から芝居の招待を受けた。
新しい劇団「613」を数名で立ち上げた。その旗揚げ公演である。中野にある「HOPE」という劇場で全9公演が行われた。「笑って」と題された病院を舞台にした芝居だった。
余命幾ばくもない入院中の奥さんを見舞いに来るが、会う勇気がなく葛藤する夫、医者同士の確執、そして、金髪の玉緒扮する医師が、自らがアルツハイマーを病んでいることを最後に告げひとり病院を去って行く、、。
誰しもがそれぞれの問題を抱え、その中で悩み、生きる希望を拾い、無くし、時は容赦なく過ぎていく。
限られた命ある時間を大切に生きて行くことを教えられた、とても見応えのある感動的な芝居だった。
出演者の力量も素晴らしく、演出家やスタッフの含めた、まじめな問題に取り組んでいる若き才能が多くいることを知り心打たれた。
活動の場は小劇場であっても、こうした日本の演劇文化を支え、自らの信じるテーマを訴え続けることに人生を賭けている心のきれいな若者たちがいるのである。
機会があれば、こうした若者たちの活動を地上波が難しいならBSテレビで取り上げられないだろうかと思った。
その玉緒が昨年の暮れ、恵比寿のバールという、彼女の行きつけのバーに連れて行ってくれた。店長と意気投合し、2011年 1月22日、バールのオープン3周年記念イベントとして、玉緒や店の親しいお客さんに声をかけて、僕のトークショーをすることになった。
トークショーには40〜50名が集まっただろうか。それにしても店長も玉緒も顔が広い。職業年齢は多岐に渡った。
ラジオのディレクター、サウンドエンジニアー、雑誌編集者、ヘアメイクアーティスト、AV女優、元レース・クイーンで現在はフリーのアナウンサーやナレーターをマネジメントする事務所の美人社長、医学部の女子大生、、。
一時間強のトークとスライドショーが終わると、にわかに店の照明が暗くなった。2日前に僕が61回目の誕生日を迎えたことを知っていて、何種類ものフルーツで周りを彩った大きなバースデーケーキが運ばれて来たのである。
ケーキには、ライカを構える僕の姿がチョコレートの線で描かれてローソクの火に揺らめいていた。何年か前の僕が撮影した福山雅治さんの写真集の中の一ページに、僕が鏡に写り込んだ一枚があって、そこから絵柄を取ったのだとすぐにわかった。僕にそっくりに描かれた素晴らしい完成度で、彼らの絵心と誠意に感動した。お店のスタッフも集まったお客さんたちも、なんとも気持ちの良い、垣根のない人々であった。素晴らしい一夜だった。さて、話したいことはもっとある。
近隣に美術書を扱う洒落た店が出来た。先週その店に行き、レジの所にいた若い女性に名刺を渡し、「こちらのお店で私の写真集を販売して頂きたいのですが、どうすれば宜しいでしょうか?」と尋ねてみた。
その女性は表情は優しかったが、こんな返事が返ってきた。
「そうですか、そうしたら現品を持って来て下されば、少しお預かりして検討します。ただ、お預かりした書籍はご返品出来ないんですよ。そして、不採用になった場合はこちらからご連絡は致しませんので、、。」
ああ、そうなんですか、いちいち返品する手間が大変なんですね、で、販売出来ない旨の電話はしにくいですものね!じゃあ 数日して電話がこなければ、不採用で、本は廃棄されたと思えば良いのですね?」
彼女は、これに否定をせず、軽くうなずいた。
twitterにこの書店のことをつぶやくと実に沢山の人から返信がきた。
「なんと失礼な。上から目線で、作品を置かせてやってる的な態度ですね、なんとも残念なお話です。見識が低い、もしくは心が狭いと思います」
こうした意見がほとんどだった。
「若い頃はそうした扱いをよくされたものです」という方もいらした。
謙虚に誠実に生きている人もいれば、多少の権力を持つと高慢になってしまう人もいるのが世の常だ。
「慢心は損の始まり、謙虚は得(徳)の始まり」そんな言葉が僕の胸をふとよぎったのである。